ィ#img/72/5a495e.jpg友愛社ィ獣道をまっしぐらに走り続けた男達の末路。力道山と花形の睨み合が続き今にも格闘になりかねなかった。てめえ、ここをどこだと思ってんだ。渋谷でてめえみてぇなのが用心棒を務められるとョ本気で思ってるのか。花形のどすのきいた低い声がひびいた。力道山の顔が紅湖したョグット顔を花形の方に突きだしョ空手チョップで鳴らした手を怒りで震わせている。花形も敗けずに顔を突きつけた。東京の男の中の男たち誰もがョそれだけでブルってしまう顔である。ィ強い奴ほど殺される、と言う至言があるが、当に正鵠を得た格言だ。ィ昭和三十年、渋谷の街は、新興愚連隊安藤組の全盛期であった。区画整理が済んだ渋谷の宇田川町にョキヤバレー純情が誕生した揀сNザの縄張りからすると当然、挨拶が有るべきだった。安藤組では、挨拶に来るのを待っていたが、何ら音沙汰ない。苛立だった若い衆が、その店は潰してしまお。といきりたった。そこえ花形敬が現れ、即座に行動に移つした。当時、花形と言えば、泣く子も黙る、素手ゴロでは向かうとこ敵無しと怖れられていた。花形は数名の若い衆を従え、そのキヤバレに乗り込み、経営者を呼べ。と怒号した。すると、そこえ出てきたのは力道山だった。何の用だ。力道山が凄みをかけて、花形に近ずくとョてめえに用はない。ここの親父に用があるつてんだ。俺はここの用心棒だ。話があれば聞いてやろうじゃねえか。花形の顔が変わった。顔色は同じだが、縁なし眼鏡をむしり取ったそこには、右目上の傷あと、左頬や顔の傷が生々しく浮かび上がった。ィ近代ヤクザの先駆者となった安藤組改め東興行社長、安藤昇は、横井英樹襲撃事件でョ安藤を始め数名が逮捕されていた。ィこの事件で安藤は七年の刑務所生活を余儀なくされ。留守を守る、西原も殺され、安藤組は衰退の道をたどっていた、花形は実行犯から省かれていたので、減刑されて三年の刑務所生活でシヤバに出ることができた。しかし、彼を待っていたのは極悪な環境と非道な人生だった暹ョその後、力道山が新築したョリキョスポーツパレスを東声会の柳川興行が、事務所として使用していた件は、それなりの事情があった。力道山は数年前、渋谷の街で苦い屈辱な思いを抱いたまま新築したリキーパレスは、安藤組に脅されて逃げ回っていた事件があった。安藤昇と花形敬の全盛期のことだ暹ィ裏の裏は表に出せない。ィ魔の心理学!?五月十二日生まれの人は、内弁慶で慎重な陽気者。バカを装いながら、知識を立てに復讐する性格。本音と建前を見抜く能力にたけ、気に入らない言動には容赦なく攻撃する。聡明な頭脳で作戦を立てョ相手をガツンと打ちのめすことに喜びを感じるので、敵に回すと厄介な存在となる。特にョ変態性が多いのも五月生まれに集中する。ィ五月十一日の悪魔の顔。頭の中はパラダイス、ファンタジクな人気者だが、自惚れ屋のホラ吹き屋揄スごとも大袈裟に話しー作り話を平気で熱弁して人の気を引こうとする。心の中では騙された相手を見て楽しんでいるが悪気はなく、小学生が好きな異性に悪戯らするのと同じ心理を持っホラ吹き屋の自惚れ屋さんが、五月十一日の生まれの人々です。ィバーコート666ョあなたの誕生日に悪魔の顔が隠されている。ィ相手の手の内が即座に判る、魔術の心理学。ィ五月十日生まれの裏の顔。裏も表も明らかにする八方美人。他人に口出しされるのは気に入らないが、長いものには巻かれるタイプ。器用なので、どうすば自分が有利になるかを直感的に捉え、相手によってコロコロと態度を変えるのが得意な人間である。ィ人間は、生まれながら、人それぞれの宿命を持って、この世に存在している。その中で、一人、一人が独特な個性を持っている。優柔不断な人、頑固者、激情型、おおらかな人、クールな人、情熱的な人、性格はそれぞれ異なっているが、不思議なことにその人のョ誕生日によって、裏の顔が歴然と表に表れると言う。それは自然界の生き物として当然かも知れない。人の性格は、生まれた環境が支配するものと思っていたが、遺伝子が全てを作っている。復讐されるは我にあり。ィ我々は、日本古来の伝統文化を継承する任意団体。大日本維新連盟。創設に当たりご挨拶申し上げます。盟主中島利美。元唐田塾門下生。近代日本社会の崩壊と、日本民族精神の瓦解、私は、唐田塾の塾生として学んだ学識と倫理学を忌憚なく述べて行く。塾生の立場から塾長の生きざまをリアルに描写するのが、私の使命感だと痛感している。先ず、塾長の運命論から説いて行く。昭和11年9月7日生まれ75才、9月7日生まれの人格は、飽くなき追究心で、前に進み続ける挑戦者である。成功よりも、それに至るプロセスに魅力を感じるタイプ。仕事は熟練の域に達するまで休まず努力するので、その飽くなき挑戦は周囲の人々の称賛の的になる。トップに上り詰めた後、再び一から出直すなど常に何かを追い求めていないと充実感を得ない。後進の育成にも力を発揮しョ大勢の人々の模範となるタイプである。唐田知明氏の運勢。二面性を持っ人間の一面だけの判断には、甚だ疑問が多く、違和感がある。果たして本来の無頼漢が本当の姿なのか、疑わしい。ィ昭和32年ョ東声会が思想団体として結成されて以来、人斬五郎こと藤田五郎たちが頭角を現わしてきた。五郎は、柳川の舎弟分として東声会町井久之の直系となった人物だ。彼が、組織的抗争事件の大半に関わり、作戦を立て攻撃の準備まで完璧なシナリオを描いて来た。藤田は、戦災孤児として枝川町で生まれた。柳川の舎弟に成るまでは、悪辣な犯罪を重ねて来た。花形暗殺事件もョ三木殺害報復事件の陰謀も、全てはョ藤田五郎の策略だった。俺も35年、京都に帰るまでは、彼らと常に生活を共にして来た。ィリキースポーツパレスを東声会柳川興行の事務所に設置したことには、それなりの事情があった。柳川興行には、藤田五郎を初めとする勇猛果敢な猛者たちが揃っていた。後に小倉光男が二代目柳川興行を継承することになる。そして俺は、関西、岡田興行を継承したィ昭和37年の初夏の季節だった。兄弟分の自宅を漸く探し出し家の中に入ったが、何だか殺伐とした雰囲気に愕然とした。1年半年振りに刑務所を出て来たばかりの俺が、又刑務所に逆戻りしなければ成らない状況に遭遇してしまった。兄弟分の自宅の玄関を入ると、小倉が直接玄関に出て来た。おう、兄弟、よく来た。ちょっとトラブルがあってねぇ。今、カチコミに行こうと準備しているところだったんだ。良いときに来てくれた。何だョ相手はどこだ。安藤組かョいや、竹田組だ。竹田組の奴等と、トラブルをお越したんだ。相手三人、喫茶店に居るんだ。とにかく兄弟、これを持ってくれ、と言って、日本刀を俺に手渡した。小倉自身は、38口径の拳銃を見せて、俺はこれがあるから大丈夫だ。と、ほくそ笑んでいた。ィ昭和37年、俺は三回目の刑務所生活を終えて上京した兄弟分の小倉光男を訪ねて行ったのだが、新宿から渋谷に移転していたので、探し回って漸く探し出すことが出来た。それに驚いたことに新築したばかりのリキースポーツパレス会館が、東声会柳川興行の事務所となっていたことに驚愕したことを今だ強烈に記憶している。ィ1961年7月オョプンしたリキースポーツパレスの発起人は政財界の要人で締めョ会場は溢れていた。ィ同年7月ョ東京渋谷に、リキョスポーツパレスの落成式が行われた。名実共に力道山の力の王国である。このスポーツパレスこそが呪われた建物だったのである。これから始まる安藤組との確執。対立抗争事件へと発展ョ花形敬暗殺へと続いて行く。安藤組、花形敬ョ暗殺の陰謀。今だから明かす首謀者ョ俺の兄弟分である小倉光男が語る真実。5月から連載?ィョ力道山が赤坂にリキョマンションを新築した当時、二人は此処に日韓双方の有力者を招いて、時に応じて会合させることを思い立った韓国要人は町井がひつばり出し、日本の政財界要人は児玉が引っ張り出して密議をこらした。町井は児玉の紹介で、大野や河野、岸信介などの日本側要人と、韓国の国会国防委員長、駐日韓国代表部の公使らの話し合いを取り持つて来た。日韓の国交正常化に向けた動きを支援町井ー児玉路線は、町井がそれから?力の王国を築いて行く原動力となっている。その端諸は、町井と力道山の深い絆だったのである。ィ昭和32年頃だった。町井と力道山が一緒に酒を飲んで、二人で喧嘩をぼつはじめるんですよ二人が途端に立ち上がり、殴り合うんでねぇ。びっくりしましたよいやぁョ親父は本当に強いぞョ力道山と喧嘩しても、親父の方が強いて思ったよ町井のボディーガード役を務めョ若い衆として町井邸に住み込んでいた俺の先輩、俺はョ親父が力さんと一緒に飲に行くとき、何時も親父のボディーガードとして付いて行くわけだ。ニューラテンクォーターとかね。いずれ劣らぬ酒豪の二人、しかし、飲み方は対照的だった。宮永の証言。ィ東声会は朝鮮総連や赤旗と戦うために組織を作った。と説いていた。。










昭和時代の興業界を支配した、山口組三代目田岡親分、吉本興行初代林社長、力道山、東富士、ボブーなどの侠たちの業績があてから現在吉本興行が存在しているのである」俺も、林社長と二度会ったことがあるがなかなかの人物であった」


俺が、吉本興行の初代会長の林氏と会つたのは、黒崎親分の紹介であった。黒崎親分と、吉本興行の林会長とは兄弟分だった。
まだ俺が三十代の血気盛んな頃の逸話である。

黒崎房二親分は若い頃、横浜の大親分綱島一家に、客分として厄介になっていたが、晩年故郷の姫路に帰り、二代目本多会改め、初代平和会平田会長の舎弟になって晩年を過ごした親分であったが。暴漢に襲われ不慮の死を遂げた。















東声会初代会長
町井久之
昭和三十二年ョ愚連隊を統合し東亜民族の団決を誓って決起した東声会も昭和41年解散声明を警視庁に提出名実共に解散、町井久之は現役を退いた。だが、東声会は東亜友愛と名称を変更し沖田守弘が理事長に就任して再出発したラ新宿伊藤興行初代会長伊藤晃と共に独自な路線を疾走したのである。
昭和47年7月、東京六本木の一角に一際目立っ異様な建物、東亜ビルョこれが町井久之の要塞だョ」昭和47年7月同ビルにて財界人のクラブハウスがーオョブンした」司会は業界随一を誇るNHK看板アナウンサー宮田輝の司会で開幕した」運行委員はョ東急電鉄社長、五島昇ョ西武百貨店の堤清二ョ三越の岡田茂社長とョ自民党の幹事長園田直がカンバイの音頭をとって祝杯が上げられた。接待客は、総数7千数百人に及んだ。町井久之の絶調期である。東声会を解散しョ僅か6年の短期間で町井久之は大々的な変身を遂げたのである。町井は日韓両国の政財界の人脈を利用してョ悠然と表社会へと踊りでたのである。昭和三八年、山口組三代目田岡一雄の舎弟になった町井は、本来山口組の一問だったが、前人未到の快挙を遂げた町井久之が現役を退くことで、山口組に菱形の代紋を返上しョ従来使用していた○に東の代紋を着用することになつた。しかし、組の実権は町井が握っていた。副会長平野富士松ョ理事長沖田守弘、事務局長ョ二村昭平、で独自の路線を進んだラこうして権力の頂点を極めた町井は、悠々自適な生活を営みョ表の顔は実業界チ裏の顔は獣道とゆう極めて斬新な二頭戦術を駆使したラ我々は裏社会で獣に飼育された野獣の群れだったのだ。^次回昭和4○年前後から十年近く、関西追放の逆境の中で、流浪の旅をしていた俺をョ新宿の伊藤の親父が取り直して波紋追放の処分が解け、現役に復帰することになつた。町井久之は、韓国政財界や児玉たちを利用して莫大な資産を築き上げたがョその資産の全てが大海の泡となってしまった。町井は、劣悪な環境の中で、ひたすら頑張って、覇者の権威を勝ち取ったのだ。町井はそう自負していた。青年時代はョ反共運動で戦い、その後は、愚連隊から銀座の虎と恐れられ過激な集団へと変化を遂げて行くことになつた。その町井を影から操っていたのがョ銀座の魔女とゆわれた妻のヤスヨである。しかし、ヤスヨの内助の功も儚く、二○○二年九月ョ町井久之は、79歳の生涯を閉じた。俺は訃報を聞いて、上京し初七日の法要を済ませて帰省したョだが、六本木に聳え立つ要塞は、今は跡形もなく廃墟と化していた。そこには、栄華を誇った覇者の面影はない。俺の脳裏に去来する世俗の儚さョ栄華盛衰の無情は万感胸に迫る思いであった。町井が全盛期に貢献した韓国大統領との遊侠の美談も夢のまた夢と消え失せたラ町井久之とゆう一人の侠が築き上げた牙城は、彼の墓標ともに消え去りョ地位と名声は、彼自身の手腕と才覚が成し遂げた栄華だった。だが、仮面の裏の顔は銀座の虎、猛牛と恐れられョ斯界の覇者として君臨したことも事実である。俺たち若い者は、町井の裏の顔に帰属した獣の集団に過ぎなかった。東声会青年隊長、藤田五郎、少年愚連隊の三木ヒロム、児玉と町井の陰謀の裏で、田中清玄暗殺の指示を受けて、実行した木下睦男、花形を殺害した小倉光男。この二人とは兄弟分の関係にあった。新宿に蠢く若者たち、きらびやかに塗り込められたヤクザの欺瞞、ネオンの輝きに浮き上がる若者の街、新宿を舞台に繰り広げられた悲惨な抗争の中で若者たちの命が散って行った。昭和三二年、日本陸軍中将石原莞爾の思想に共鳴した町井が、自ら立ち上げた組織を解散、残された若者は、愚連隊ヤクザとして活路を開いた。この若者の一軍は、過激な集団となって暗躍し裏社会に台頭したョ無頼の若者の集団に青春を熱燃した幾多な青年たちの命が散って行ったのである。夜の新宿若者の街角ョ若者と戯れた新宿の街を俺は、一生忘れないだろう。
ョこの少年愚連隊が拮抗する中で住吉会と東声会の確執が拡大し、対立抗争事件へと展開しョ昭和三六年十月三木ヒロムは、暗殺者の襲撃によって無惨な死を遂げた。兄貴分の台湾国籍陳共々殺されたのであるラこの事件の細部は、実話時代に連載していたので、次回に掲載する。
少年愚連隊を率いた三声会会長三木ヒロムは、23年の生涯を閉じた。その時、現場にいた兄貴分も絶命した。 数百人の部下を従え闊歩する三木ヒロムは、新宿の帝王と謳われていた。彼の生き様は、時代の寵児と怖れていた。彼は東声会組員の中でも異色な存在であったラ弱肉強食こそ人間の世界だョ潰せるものは潰して奪い取る、と言う強硬手段で突破した三木ヒロムは、人海戦術を攻撃手段として戦う実利主義者だったラこの事件から報復に備える藤田五郎、始め、数命の犠牲者を出すことになったドキュメンタリーの映像は、現在企画中である。












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